いつから始まった!?わたしの振り返り。
家族構成は一般的な核家族。
私は長女で末っ子。
ここで、母の後悔の念が始まる。
→祖母に預けるのではなかった(何度言われたかわからない)
※これは、私のせいではなく、自分が原因では?
→あんたなんか産むんじゃなかった(これまた何度も言われた)
※産むんじゃなかった発言は、叱られると必ず、そうでなくても言われてた。
私は母親がパートに出る関係で確か3~4歳の時に昼間は預けられ
幼稚園のお迎えも祖母が来ていた。(朝は集団通園だった)
まあ、よくあることではあるが姑&小姑2名VS嫁
とかく酷かった?嫁姑問題。
でも、嫁入り前に父の過去が発覚し
でももう、後戻りもできない状況で結婚(したらしい)
翌年に兄生れる。
自分の息子の過去を忘れいびる祖母。
小姑②も、まだ実家にいたらしく、応戦。
そんなこんなで、母の心臓病発覚
うちの兄弟は6歳年が離れているが、
おそらく病気があったので年が離れたと思う
そして生まれたのが私。
うちの母親は、かなり平等主義だった
それは、母親の育ち方もあったと思われる
学歴も、習い事も、
20歳での年金支払い義務が発生する時も
学生だと後々払うが猶予期間があるにもかかわらず
兄弟とも学生の間は、全部払ってくれた(ここはかなり感謝)
免許取るときも、同じようにお金を出してくれた。
ただ違ったのは、頭の中身。
なにをしてもできる兄
なにをしても駄目な妹
それは、幼いころからひしひしと感じるものはあった。
もともと、人付き合いが苦手な私。
でも、いびられる母を見続けていた。
いい子にならなければと必死。
中学の部活の引退し、受験モードに入った時
県内での共通模試なるものがあり
結果を見て自分でも引いた。
地域的に、公立高校に行くことが良いとされる
一番下の公立高校でさえ難しい結果。
それがスイッチ。
あとは、自分のわがままもあるが、
■兄と同じ高校に行かなければ!(地域で一番いい高校)
■女子高にはいきたくない(いじめにあったりしてたので怖かった)
■高校のレベルで並べると①共学②女子高③男子校④女子高⑤共学
→自動的に①しか選択肢はない
塾に入りびたり、必死に勉強
頭を下げて2つの塾に通った。
面談の際、滑り止めの私立を合格したら①の高校の受験をしてもいいといわれる。
私立には通った。
でも、公立の①は落ちた…
15の春で泣いたなら、18の春に笑えばいい
そうゆう担任の言葉が常に付きまとう学校
所詮滑り止めの学校で、落ちた人が通う学校
(中学からある私立なので、一概に落ちた人とは言い切れないが)
部活を引退してから、大学受験までの長い道のりが始まった。