いつから始まった!?わたしの振り返り。③
何はともあれ、大学には進学。
入学式を終えて校内を歩いているとき
「あんたはここで良かったのかもしれないね」と一言。
ちょっとした和解です。
おめでとうの一言ももらえなかったけど、
母は、母なりに思うこともあったのでしょう。
た・だ・し
名前だけは有名だったが故?学費が…
兄も私立ですが超マンモス大学&文系
公立に比べれば高いけど、そこまでではなかった。
うちの大学…名前だけの癖に学費高い。。
大学的に、奨学金制度も少なく借りても返さなければいけないし
親の収入で左右される制度でもあるが、ギリギリのラインで対象外
まあ、結果的には社会に出て奨学金返済貧乏にはならなかったので
これは感謝。
6歳年上の兄ですが、2浪したので学年的には4歳差
兄:大学卒業→私:大学入学
親の意向もあって兄と同居が決定。兄が結婚するまでの3年間同居。
家事一切は私、光熱費は兄、家賃は親
兄は不景気真っただ中、なかなか就職先が決まらなかったが
大手の会社の子会社に就職ののち現在は転籍となり本社勤務。
そこそこの出世はするんだろうな。と、同居当時は感じてましたが
現実もその通り。
本来なら、地方(地元に近い事業所?)に飛ばされそうだったところ
「妹の面倒を見ないといけないので」と会社に申告。
結果、他の候補の方が地方へ行ったとあとから聞いた。(ちょっとずるい)
ま、人のことはいえないけど嫁に振り回されてる感があるので
苦労はしている、と思う。
基本的に兄に対してはやることやってれば放任で
(大学生だし遊びたいだろうとおもっていたみたい)
誕生日におこずかいをもらったりはしてた。
兄は会社から徒歩五分の場所で家を探したので
私が大学に行くのに苦労が付きまとった。
自分で選んだけど、知らない場所で起こることに戸惑ったのかもしれない。
電車に乗れない⇒特に1限の授業は朝の通勤ラッシュ
必須の単位をボロボロ落とす結果に。
このころ、教授に病院に行くことを強く勧められ仕方なく通院
当時は複雑な気分だったけど、今となってはまあありがたかったかなと。
初めてまともに通ったのは清和病院。そこではいわゆる「うつ」と判断され
当時は3環形の薬が主流であって、副作用もそこそこ。
次第に足も遠のき、なんか落ち着いた感じもしていた。
病院と同時期に、自動車学校に通っていて
その時の教習簿にある写真、誰が見ても明らかにやばい状態の顔。
そりゃあ医者に行けっていわれるよな~な状態。
で、またちょっと時代の流れが変わり、パキシルの世界へ。
これがまずかった。
確かに、双極性障害は見つけにくい。
でも、どこの病院に行ってもパキシル。
見抜いてくれる病院はなかった。